区分 | 西暦 | 和暦 | 年令 数え |
事 項 |
---|---|---|---|---|
誕生 | 1889 | 明治22 | 1才 | 3月28日 父・渡邊親助 母・サトの長男として 熊本県甲佐町に生まれ 幸吉と命名された |
幼年時代 | 1897 | 明治30 | 9才 | 甲佐小学校に入学し 卒業まで首席であった |
1905-1906 | 明治38-39 | 17-18才 | 中学済々黌に入学し 2年のとき渡米を志すも身体検査不合格のため断念 時の代議士渡辺啓昌 その天稟を惜しみ東京に伴い 杉浦重剛の日本中学に学ばせたが 後 志すところがあって明治学院に転校 卒業後も独学 | |
青年時代 | 1912 | 明治45 | 24才 | 台湾に渡り 台湾小学校商業科英語教師を務めた |
1913 | 大正2 | 25才 | 上京 下高井戸に農場を開き 高円寺に皇風寮(学生塾)設け 約10年 法大生ら青年と農耕に勤しみ 塾教育に注力 また 出生地甲佐町の清流「緑川」に因んで「緑村」と号し始めた | |
北海道巡講時代 | 1925 | 大正14 | 37才 | 11月 北海道開拓功労者で 郷土の先輩である太田竜太郎(当時胆振国状督村長)宅を本拠に 札幌・小樽・旭川・室蘭・由仁・栗山・三川・岩見沢・追分等各地で講演し 吟道普及に尽力 併せて 西郷南州翁五十年記念事業の吟詠講習・大会開催推進 |
1926 | 大正15 | 38才 | 1月 旭川に約2ヶ月滞在し 近くの愛別村等の青年に吟詠指導→本格的「教育吟詠」指導開始 | |
1928 | 昭和3 | 40才 | 5月 旭川を再訪 約1ヶ年半にわたり 旭川近郊の永山・東旭川・愛別・当麻・安足間等の諸村 石北一帯・上川方面の青壮年心魂浄化に尽力 | |
1926-1929 | 大正15 -昭和4 |
38-41才 | (推定 1925-1928頃に)「日本漢詩吟詠会」を設立 1929(昭和4)に「皇風会」を設立 菊地武夫男爵を会長に 塩沢健を理事長とし 渡邊・山田・宇田川・中頭が理事に就任 平沼騏一郎男爵・荒木貞夫大将等を顧問に迎え 教育吟詠による国民強化運動展開への基礎を築いた |
|
熊本他吟詠活動 | 1929 | 昭和4 | 41才 | 9月 日本漢詩吟詠会主催「第1回吟詠大会」を熊本市公会堂で開催し 教育吟詠普及に尽力 11月 皇風会熊本支部発足し 第1回吟詠大会を熊本大神宮で開催 11月 熊本市下通町に居を定め 皇風健児舎を創設し4才~15才の男女を入舎させ吟詠訓練 この熊本における吟詠熱が全九州に拡がり 優秀な吟詠実践家を多く排出した |
1930 | 昭和5 | 42才 | 福岡県では 教育会長・白坂栄彦が詩歌集を作り 県下の中等教員呼びかけ渡邊緑村が指導 1930年(昭和5)からは井原辰夫が緑村の代理講師として指導者養成講習会を月2回開催 |
|
1931 | 昭和6 | 43才 | 6月 旭川に2週間滞在し 吟詠普及活動 | |
昭和戦前東京圏吟詠活動 | 1932 | 昭和7 | 44才 | 1928(昭和3)二松学舎の山田準学長の招聘に応じ 熊本との兼任で二松学舎専門学校(現二松学舎大学)の不定期的講習であったが 全国的視野から教育吟詠を強力に展開するため上京し 1932(昭和7)4月以降 正式に講師依頼を受け 吟詠部員に対し定期的に熱烈指導 5月以降 次の各学校等の吟詠部で教育吟詠指導 日本大学・同皇風会日大支部・大東文化学院・大正大学・早稲田大学・國學院大學・皇風会東京支部他 9月 熊本の井原辰夫令姉静香と結婚し新宿の柏木に居を定め 併せて第2次皇風寮を開設 |
1933 | 昭和8 | 45才 | 8月 八聖殿全国大会開催に際し 八聖殿を建立した安達謙蔵(漢城)の良き相談相手となり 開催準備に奔走し 全国各派各流の宗家宗範を一同に集め大会を成功に導いた この大会が契機となり大日本吟詠連盟が誕生 11月 皇風会学生連合吟詠大会開催 |
|
1934 | 昭和9 | 46才 | 11月 日本学生吟詠連盟結成と同記念吟詠大会 | |
1937 | 昭和12 | 49才 | 6月 大日本連合青年団発行「青年カード」6月号に「青年と吟詠」を掲載し 「詩歌吟詠の綱領」の中で 後に「吟道精神」とも呼ばれる吟詠研修開始時に唱和する(漢籍から採った)「吟詠唱和の詞」を紹介 | |
終戦前後 | 1945 | 昭和20 | 57才 | 3月末 東京大空襲の影響と持病(ヘルニア)の手術を受けるため 郷里の甲佐町に疎開 疎開後 熊本の病院で手術を受け 抜糸した日の夜に空襲で病院は延焼 奇跡的に「九死に一生」命拾いし 甲佐に戻って終戦を迎えた |
1946 | 昭和21 | 58才 | 3月と6月に上京し 東京と近県の状況を調査して甲佐に帰郷後 甲佐の同志と図り 引揚げ者の援護を目的とする社会事業を興したが 道義実践的社会事業の精神が理解されず失敗 | |
戦後の吟詠活動 | 1948 | 昭和23 | 60才 | 5月 道義実践運動を興すべく上京 在京の同志が道義実践会を結成し 毎月1回会合を吟詠月例研修会を兼ねて開催 10月 「道義実践会」の名称を「緑村吟詠会」と改め 吟道の実践による道義高揚運動として毎月第3日曜に例会を持つことにした |
1949 | 昭和24 | 61才 | 6月2日 在京の同志が集って 還暦祝として 明治神宮暁天参拝と祝賀の宴を開催 11月20日 還暦記念・吟友慰霊吟詠大会を京橋鉄砲洲神社で開催 |
|
1950 | 昭和25 | 62才 | 4月 息女の高校入学を機に 家族が熊本甲佐から上京し 鉄砲洲神社仮寓を経て 杉並区上井草に居を構えた 11月4日 安達謙蔵3年祭を兼ねた追悼慰霊の 安達謙蔵先生追悼記念全国吟詠大会が社会事業会館で開催されたとき 本大会提起者本田トヨ女史を助けて大会運営に当たり 吟界大御所多数の出吟を得 往時の八聖殿大会を髣髴させる盛会となった かかる全国的規模の吟詠大会は戦後初であった |
|
1951 | 昭和26 | 63才 | 吟詠行脚などにより 1952(昭和27)2月23日に衆議院本会議で決議された「東洋精神文化振興に関する決議」に向けた 漢文運動者の糾合に尽力 秋 阪神地方同志の招聘に応じ吟詠普及と在京門人の裁判問題解決のため 神戸地方に数回出張奔走し ほぼ目的を達成して帰京の翌日(12月30日)夕刻 脳溢血で倒れた |
|
1952 | 昭和27 | 64才 | 1月 家族親戚門弟同志の1週間にわたる介護の甲斐なく 1月5日未明 不帰の客となった | |
没後 | 1952 | 昭和27 | 没後 0年 | 1月6日 上井草の自宅で仮葬 1月8日 鉄砲洲神社で吟詠葬 10月 緑村の吟詠精神を記念するため 緑村吟詠会が新撰吟詠詩歌集を発行 |
1955 | 昭和30 | 没後 3年 | 10月 緑村吟詠会が教育吟詠詩集を発行 | |
1956 | 昭和31 | 没後 4年 | 10月14日 渡邊緑村墓碑建立除幕式(谷中霊園) |